存在と存在するもの

前書き

存在と存在するもの(※以下、「存在者」とする)の区別をしましょうとは言うものの、この区別の仕方は「存在」というものをどのように捉えるかによって幾つかのパターンに分類されるように思う。

以下でその主要なパターンを紹介していきたい。

存在論の超越的解釈

まずは、存在を存在者的に(ontishに)捉えるパターン。

「神が世界を創造した」という言葉を、神というものが存在し、その存在する神が被造物を創造したのだと捉える解釈がそれに当たる。

無論実際には「神は存在する」というのは誤りである。

なぜなら、神は存在そのもの・全き存在であって、存在するもの(被造物)ではないからである。

存在と存在者、創造主と被造物は明確に区別されなくてはならない。

「神は存在する」ではなく「神(は存在で)ある」が正しいのである。

とはいえ、人間の認識の対象となるのは専ら「認識されたもの」つまり何らかの意味での被造物であり、神を直接認識することはできないので、「存在そのもの」と言われても何のことだがよく分からない。

なので、大抵の人は有神論者であるか無神論者であるかに関わらず、「神は存在するか否か」というように、存在を存在者的に(ontishに)解釈をしてしまう訳である。

最も原始的で素朴な解釈と言える。

存在論の超越論的解釈

次に存在と存在者の区別を「超越論的な意識およびその志向的相関者」と「超越」との違いに求めるパターン。

「超越」とは認識された対象を指し、「超越論的な意識およびその志向的相関者」とはそのつどの認識そのものを意味する(※現象学の用語)

我々のあらゆる認識(何かを何かとして認識すること)は、そもそも認識という「イマ・ココ」の活動があって初めて成立しており、あらゆる認識されたものはこの認識に起因している。

“人間にとって"存在しているものは全て認識の可能的対象であるため、ここに存在者(存在するもの)と存在(存在するものがそこから由来するところのもの)の区別を見出すことができる。

この「存在論の超越論的解釈」は、我々がそれ自体として即自的に存在すると素朴に考えている事物は全て我々の認識に起因するものであるということを適切に捉えられている点で「存在の超越的解釈」に勝っている。

一方で、この解釈における存在と存在者の区別は専ら「物質的な事物の体験の層」つまりいわゆる「表層意識」に定位してなされているのであり、認識の発生的起源、伝統的な言葉で言い換えれば物質的なものがそこから起因するところの「霊的なもの」を捉え損なっているという点において不完全である。

超越的 心理学的自我 即自的に存在する対象
超越論的 超越論的主観性 超越論的主観性の志向的相関者

存在論の発生的解釈

存在と存在者の区別を「存在論の超越論的解釈」よりも更に深く、認識(の相関者たる対象)の発生源とそこからの流出物(Ex-istenz)に見出すパターン。

存在者(Existenz)は「ex(外に)」という接頭辞から分かる通り、ある起源(神)から流出したもの(被造物)である。

このことは認識作用についても、その認識の相関者についても、双方に当てはまる。つまり、我々の認識もこの世に存在するものもいずれも共通の起源に由来するものであり、従って神(仏)は我々の内に見出すことも、道端の葉や石の内に見出すことも原理的に可能である。

認識対象(マクロコスモス)は認識(ミクロコスモス)と常に相関しており、それらはその起源からの流出に応じた多次元的な階層性を有している。

この解釈に従えば、先の「存在論の超越論的解釈」における超越論的主観性、すなわち人間の認識はそれ自体更に起源を有しているということになり、存在は起源からの流出という多層性において捉えられるべきだということになる。

※対象にのみ絞って図式化したイメージ